寒めぞー。
2013年02月25日
2013年02月22日
様々なお客さん
2013年02月20日
いやな物が出てきた

1971年春の入試要綱(・・って云うんだっけ?)が出てきた。
実に42年前の現役受験生の時のものだ。
入試の時期は今頃で4つか5つ受けたが、全滅だった。
後に入ることになるAG大はこの時には受験しなかったのだから笑える。
案内を取り寄せただけで、何故受験しなかったのかを覚えていない。
きっとカラーが合わないと思ったのだろう。
進学校にいたために、スポーツ推薦を使うのは後ろめたかった。
国体で7位は悪くはないが、あのへんが限界だと感じていたので、大学に
進んでまでやりたくはなかった。推薦を使えば、楽しみで走るという訳には
いかなくなる。
また格好良く言えば、「潔しとしない」という気概だったのだが、その当時の
成績に見合う学校に入る気もなかったので、浪人するしかなかった。
しかしながら、その後の浪人生活は悲惨だった。
哲学的命題?に悩まされて、勉強など出来るものではなかった。
ともあれ英語が苦手だったので、配点が他の科目と同じ、漢文が出来ないので、
出ないか出ても少し、社会科は難問珍問が多い大学で、法学系・・を受けた。
AG大の入試は今でもよく覚えている。
乗換え駅で慣れない満員電車のため降りられなかったのだ。
そのため大学正門に着いたのは入試開始10分後だった。
バリケードの中にいた案内係りの体育会系学生が、受験票を見て
「走れば間に合います」と一緒に受験会場の教室まで走ってくれた。
正門から一番遠い校舎で、おまけに4階だか5階だかだった。
息も絶え絶えで初めの科目の英語を受けた。
法学部の募集定員300人に受験者8100人で名目倍率27倍。
しかし当時の私学などは、こんなのはザラだったのだ。
実際には1200人位合格して、入学者は定員の倍の600人位だった。
「ここです」と教室を指す案内係りの学生に、ちゃんとお礼を
言ったのかどうか記憶が飛んでしまっている。
あの時、間に合いますと一緒に走ってくれなかったら、この学校に
入ることもなかっただろう。
その後、学内であの案内してくれた学生だなと思える人には出会えないで
終わってしまった。
遠い日のどこか辛い記憶である。
2013年02月16日
モモリン
2013年02月10日
2013年02月04日
二本松市の切り通し坂

この「切り通し坂」についてはTUKAさんの「池ノ入切通し」に詳しい。
ここに登場する「豊潤水」という水飲み場を見たくなって、出かけてきた。



何でも「村越のおじさん」と呼ばれる料理名人が大正半ばに私財を投じてこれを造った。
これが大いに役立ったらしく馬車屋組合が小父さんの顕彰碑を建てその徳を慕った。

さらに時代が下がり昭和6年の夏、通りかかった当時の小柳牧衛知事が、この水で
のどを潤した。
ふと見ると馬車屋組合が建てた顕彰碑が目に入った。
この話に感動した知事は、すぐさま筆をとり「道行く人つつがなきや」と揮毫した。


と云った三題ばなしみたいなもんなのだが、この鬼県令三島が作らせた道にまつわる物語を
寒い中、てこてこと歩いてきた。