2011年02月21日

天明の大飢饉 松川の西光寺 人骨収集塚の碑

晴れの日曜日、友人と連れ立って、のんびりと松川町の西光寺に向かう。
ここに天明の大飢饉の時に、行き倒れの人々の遺骸を集め弔った碑があるという。

ネットで調べてみると、なんとあの眼鏡橋のすぐ上流にあるお寺さんのようだ。

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真言宗豊山派とあるだけで、その他の説明書きが一切無い。
庫裏に案内を請うまでもなく、探し回る。

本堂の西側から裏にかけての墓地を探し回ること数分。
かねて書物の上ではあるらしいと知っていた「とっくり」型の墓石にめぐりあった。

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酒が大好きで、身を持ち崩すほどでもなく一生を送った人なのだろうから、どこの寺の
どこどこにある、とあっても良さそうであるが、やはり人のお墓である。微妙に所在を
隠していることが多い。(だからこのお寺で出会ったと書いていいのか迷う)

とっくりの墓石を撮っていると、なんと住職がゴミ袋のようなものを提げて歩いてきた。
僥倖と言わずして、何と言う。さっそく天明の大飢饉の人骨収集塚碑の所在を聞いてみた。

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他の書物でみた碑は「これだっけかな?」と一応チェックしていたものだった。
あまりにも素っ気が無かったので「まさかこれ?」としていたものだったのだ。

住職に「案内板があるのかと思ってました」と言うと、「檀家さんや、その他の人にも
そう言われます」とのこと。では、何故にそうするのかという疑問もないではないが、
そもそも無縁の行き倒れの人々のお墓のようなものだ。観光資源ではないということ
なのだろうと勝手に解釈し、それ以上の質問は控えた。

会津若松の秀安寺に「小原庄助」さんのお墓がある。
あの歌に唄われた方と同一人物なのか、たまたま同姓同名なのか諸説があって、よくは
知らないが、そこにお邪魔した時に、住職の奥様に案内していただいた。
本堂からは階段を三階分くらい登って少し歩くという距離で恐縮した。
やはり、何故に案内板を出さないのか聞いたことがある。
「人のお墓ですから」というのが答えだった。

話を西光寺に戻す。
例の畳石山のお地蔵さんについて聞いてみた。
あのお地蔵さんの向いている方向は、僅かな誤差でこのお寺の方向なのだ。
しかし、その畳石山のお地蔵さんとこのお寺さんとは関係がないという。
「西方浄土」ということで、西を向いて拝むということもあり、向きを真東に
向けるということは多いという。このお寺さんも本堂は真東を向いているのだそうだ。
そして、それと同一かどうかはっきりしないのだが、やはり山中深く鎮座するお地蔵
さんがあるという。(だとしたら、えらいこっちゃ)

数分の立ち話であったが、別な話で、あのお墓は享保の一揆の指導者の一人ですよ、と
聞いた。(当然、何の案内板もない)

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享保の一揆は、二年前ほどだろうか、立子山の疣石峠まで訪ねたことがある。
そして佐原の太郎左衛門の義民の碑など、小生にも多少の縁がある。

打ち首獄門さらし首、になった首謀者以外にも、それに次ぐ数十名の追放された
人々がいる。その中のどうやら一人らしいのだが、その姓名に記憶は無かった。

自分が一揆に加わるとしたら、首謀者になどなれはしない。
ただのその他大勢か、義にかられて追放処分を受けた60数名の最末端くらいに
名を連ねられるだろうかと、妙に反省した。
posted by 山口屋散人 at 00:14| Comment(0) | 福島 | 更新情報をチェックする
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