2011年07月10日

菅野作左衛門の墓

1702年、板倉重昌(天草の乱で討死)の曾孫である板倉重寛が、やっと城の
ある領地(福島分で26500石)を拝領し、喜び勇んで初のお国入り(1704)となった。
その時、伏拝の坂で待ち構え、直訴におよんだのが菅野作左衛門である。

義人と称される人は多いが、一揆の指導者というのではなく、この菅野作左衛門
のような単独犯?は珍しい。(直訴はご法度、内容原因はともかく処断される)


顕彰碑は渡利の仏眼寺にあるのだが、彼の墓の所在が分からなかった。
ものの本には『渡利山之内』にあるとされるのだが、その山之内が現在の住居表示
には存在しないのである。
仏眼寺の近くには山之入という地名があるので、この近くかと漠然と思っていたの
だが、同じ渡利でも数キロ離れた立子山に近い地区だった。

福島街角の信仰」というブログを書いているfukutanさんのお陰で分かった。

早朝6時、仕事が休みという気楽さから、ちょっと出かけてきた。

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posted by 山口屋散人 at 19:32| Comment(4) | 福島 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
この前を通る道が江戸期の川俣街道、あるいは富岡街道と呼ばれた道ですね。
昨年、鳥谷野の渡し、鳥谷野舟橋跡を訪ね歩き、
江戸、明治、昭和、各時代の富岡街道を探索した際に、
ここを通りかかって私も遭遇しました。
この延長に疣石峠があり、そこにも義民顕彰碑があるわけですからなんとも悲しい街道ですね。
「憩いの松」は枯れたのか、切り株だけになってました。
Posted by TUKA at 2011年07月11日 22:07
ぎゃ〜!
「憩いの松」なんて、まったく存じませぬゾ〜・・
今度は切り株探しでもしますか。
Posted by 散人 at 2011年07月12日 08:35
それはなんとも意外や意外。
最近復刻され、山口屋さんもお持ちの半沢さんのフィールドワーク地図で知りました。
「道ばたの文化財」と言う本には写真が載っております。
切り株なので何の案内も説明板もありませんし、
旧道から更に旧旧道に入ったところにありますので、
非常に分かり辛い場所です。
Posted by TUKA at 2011年07月14日 00:57
ホントだ。
半沢氏のにちゃんと載ってましたね。
しかも作佐衛門の墓も載っているし・・
以前、探した時は見つからなかったので
無いものだとばかり思っていました。
どーこ見てんだかね。
Posted by 散人 at 2011年07月14日 16:58
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