見て回ってきた。
地元にいながら、この全国的にも有名な事件にあまり関心は無かった。
事実認定に関わる資料の膨大さを聞いただけで、頭だけでも突っ込みたくなかったのだ。
ただ、現場には行ってみたいとだけは思っていた。
起訴された20名の人たちは全員無罪を勝ち取ったが、犯人は最低でも数名存在する。
その現場に立ってみたい、それだけだった。
近所に「物知り」で知られた御老体がいる。
その御老体に事件の現場まで行ってきたことを話題にしたら、意外な事実を聞かされた。
小生の所属した消防団の前分団長の奥さんが、事件で死亡した機関士の遺児だというのだ。
だから毎年8月には事件現場の慰霊碑までお参りに行くという。
そしてもう一つ、途中で証言を変えた木村証人という人がいるが、何と知っている人だった。
この方は昨年お亡くなりになったが、お店にも来てくれていた。
御老体はこの木村証人を「素晴らしく度胸の良い漢だった」と表現した。
彼は松本清張の「日本の黒い霧」にも登場する。
そして、広津和郎の講演録の中では「奇怪な人物なのです」などと表されている。
小生としては、多少人を喰っているところがある人だが、面白い人だな、と思っていた。


事件とは全く無縁だと思っていたのだが、関係する人達が身近にいたのに驚かされる。
そういえば、亡き父から叔父が取り調べを受けたと聞いたことがある。
叔父の家の本棚には資本論と共産党宣言がセンターに鎮座していた。
どのくらい活動していたのか知らないが、抑圧の対象だったのだろう。
その叔父も今年で85歳になる。
松川事件の発生から今年で63年の月日が流れた。
事件が起きたS24年には既に退社して新潟に疎開していたようです。
『東芝労働組合が共産党と関係があったなんて知らね』とも言ってました。
蛇足ですが、S24年は新潟で私が生まれた年でもあります。
S26年には故郷の大滝に家族で帰ったようです。母にとってはここからが苦労の始まりだったようですが、、、。
ちなみに大滝で生まれたのは末っ子の弟だけです。
わが家は近所の電気屋さんの影響かテレビはビクター、それ以外の白物家電などは皆んな東芝でした。
今でも東京芝浦電気株式会社とあるダンボールに入った古〜い扇風機があり、捨てるに捨てられないでいます。
亡父は東芝時代は砲弾・銃弾などの製造と、工場動力源として工場内で炭焼きもしたようです。
どうも炭焼きの方の仕事が比率が高かったようで、炭焼き経験者の父は重宝されたようです。・・・現に赤紙も来なかったようです。
うちの講堂の舞台照明調光機は昭和39年東京芝浦電気製です。
まもなく50歳でしょっちゅう不具合を起こすのですが、東芝のエンジニアが来る度に頭を抱えています。
部品すら無いようです。
校舎のHf蛍光灯は安定器を含め全て東芝ライテックで統一してます。
NECと比較しても相性が出にくく、点灯寿命も長いです。
東芝ブランドでSDカード類も出回ってますが、頑張って欲しい企業の一つです。
山口屋さん、同じような投稿が2つになってしまいました、削除お願いいたします。