2007年11月08日

おかる地蔵を探す その2

ネットでは見つからない「おかる地蔵」ではあるが、まさか
図書館まで行けば何か手がかりがあるに違いない。
夕方、チャリで2分の図書館に出かけた。

郷土史のコーナーで丹念に探す。
他の興味ある項目に気をとられ、つい浮気もしてしまうので
なかなか見つからない。

ついに「お軽地蔵」という項目を見つけた。

2DSCF2123.jpg

福島盆地を歩く会という団体が編集したもので、およそ20年
ほど前のものだ。地図にナンバーをふって、おかる地蔵の
位置をしめしてある。下の画像の24がその位置である。

1DSCF2119.jpg

これを元に住宅地図で探すと、あったあった。

3DSCF1013.jpg

荒川橋のたもと、という情報は得ていた。
当然、荒川に架かる橋だとばかり思っていたのが盲点だった。
なんで大森川に架かる橋が荒川橋なんだ!

夕暮れが迫ってきたので、チャリでは間に合わない。
車を駆って、出かける。

4DSCF0999.jpg

この橋が荒川橋。旧4号線上にある橋である。
この西のふもとにあるはずだったのだが・・

5DSCF1000.jpg

無い・・!! またかよ・・

とにかく歩きまわる。ぐるっと周辺を一周。 無い。
さらに円を拡大して、ぐるっともう一周。
古くからそこに住んでいるようなお爺さんがいたので
ダメ元で聞いてみる。あっさりと教えてもらう。
近くに移転したらしい。 やっと巡り会える。

6DSCF1006.jpg

広くて新しくて立派な地蔵堂だった。

8DSCF1011.JPG

上を見上げると115号線と東北線の立体交差する所である。
何度もここを車で通っているのだが、その下にあった。

7DSCF1009.jpg

小生の持っている資料よりも詳しい説明書きなのだが、少し
内容が違うようだ。
ともあれ、きちんと知っている人、一人にめぐりあえば
簡単に分る事柄に、随分と振り回されてしまった。
まぁ、遊んでいるのだから、こんなもんか。

ところで、「おかる」さんには会えなかった。
24日が縁日だとのことだから、その時に会えるだろうか。


posted by 山口屋散人 at 21:25| Comment(7) | TrackBack(0) | 福島 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なんと言う執念! 畏れ入りました・・・。
それにしてもおぞましい歴史ですなあ。
大森代官ということは関宿藩の役人か!

菊地武雄さんを検索するといろいろヒットしますね。
山口屋さんの高校の先輩かも知れません。

> なんで大森川に架かる橋が荒川橋なんだ!
荒川はその名の通り過去に何度も氾濫を繰り返し、
その度に本流の位置を変えております。
以前は大森川が荒川の本流でした。
今の荒川は須川と呼ばれており、明治になって初代信夫橋が架けられる前は、
「奥州街道・須川の渡し」がありました。
Posted by TUKA at 2007年11月08日 23:46
さすがTUKA大先達、恐れ入りました。

小生もおかるさんがのこぎり引きの刑になったなどとは
知りませんでした。キリシタンだったなども初耳です。
寛永14年というと、例の西根堰の古川善兵衛が自刃を
したという年ですから、まだ上杉領であった時代ですね。
ということは大森代官というのはいないか名称が
正しくないか、ということになります。
関宿藩が福島に分領地をもつのはおよそ100年後の
1747年だそうです。
この説明書きを見るまで、天草の乱がでてくるとは
思ってもみませんでしたし、伝承というのはどん
どん膨らんでくるのでしょうかね。

しかし、こっち(大森川)が本家で、現荒川が分家だったとは・・
須川は、もと酢川と書いたと何かで読んだような気がします。現在も須川という川があるのかも
知りません。ちょっと調べてみますかね。
Posted by 散人 at 2007年11月09日 09:19
松川なんて、かつては信夫山の南を流れていたと言いますから、
とんでもない大災害ですねえ。まさに「治」です。

大森城の歴代城代というと芋川正親を初めとする芋川氏ですね。
城代よりも耳慣れた「代官」という言い回しで伝承されたのかな。

「あらかわ散歩道−荒川の歴史をたずねて」半沢光夫
「半沢光夫の福島発・歴史地図(上下巻)」半沢光夫
市立図書館ですとこの辺りでしょうか。
http://kazenoshin.exblog.jp/
こちらも参考になります。
Posted by TUKA at 2007年11月09日 19:00
実は今年の二月十九日に図書館で強引に全コピーした話をブログに載せましたが、
「半沢光夫の福島発・歴史地図(上下巻)」半沢光夫

この本の上巻だったのです。下巻は手に入ったのですが、上巻が無かったのです。

「あらかわ散歩道」の存在はしりませんでした。
今度行ったときに探してみます。
Posted by 散人 at 2007年11月09日 20:43
もしかして、寛永14年の大洪水は「おかる」の祟りと考えられたのでしょうか? 
当時の代官は古河善兵衛ですよね。 様々な嫌疑をかけられ米沢に呼び出された途中、李平で自刃した。
善政も沢山された方ですね。
Posted by 山田久夫 at 2008年10月19日 04:44
山田さん、ようこそ。

確かに調べてみると寛永14年に大洪水がありますね。
荒井や小生の親父の実家である鳥渡、大森が被害にあっているようです。
これが、おかる親子の祟りではとの説、ありそうですね。
何か祟りでは・・とおもわせるような事件か事故がおこらなければ、
お祭りしてもらえないのでは、と考えられます。
しかし、このおかるの話は、荒唐無稽な感じがして
にわかには信じられません。いくら江戸初期とはいえ、
めちゃくちゃですよね。

古河善兵衛は福島城にいたはずで、大森にいる代官
ごときものは、その部下ということになりますね。
おかるさんにちょっかい出したのが、古河でないことを
祈るばかりです。

ところで、古河は自刃したのではないという話をご存知でしょうか。
昭和59年の10月8日に民友新聞に発表されたのですが、
西根堰のもう一人の郷方役人、佐藤新右衛門と何かがこじれて
斬り合って両者とも死んだらしいですよ。


Posted by 散人 at 2008年10月20日 02:12
福島にも大森に城代はいましたよね!
城代と代官は別かなと思いますが。
古河善兵衛の墓は康善寺にあるそうです。
子孫が途絶えるのを思いはかって善兵衛の娘さんと坊さんを信州から海野氏を呼び寄せ結婚させて康善寺を作ったと言う話を読んだ気がします。
大森陣屋に関宿藩の代官が居た飲もう少し時代が下がってだと思います。つまりそれは大森が幕領になってからではないでしょうか。
Posted by 山田久夫 at 2009年01月05日 21:27
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