2004年09月28日

蕎麦粉?

蕎麦屋であるから、当然ながら蕎麦粉には多少のこだわりがある。
「多少」としたのは、「コノ辺デ止メトコ」という自戒があるからだ。

蕎麦というものは「物狂いの文化だ」と司馬遼太郎は言う。
数寄の文化の延長上にある、というのだ。

なるほど、TV等によく出てくる蕎麦屋の親父はちょっと変である。
蕎麦を打ちすぎて腰が変形しているとか、良い水を求めて、
あるいは自家栽培・製粉したいがため他県にまで引っ越すとか、
偏執狂かと思ってしまう。

町の蕎麦屋が「物狂い」に走り、究極の蕎麦だの何のと言い出して、
一杯1000円のもり蕎麦を売り出したりしたら、近所迷惑である。

「研ぎ澄まされた感性、一部の隙もない、妥協を許さないこだわり、
良材を求めて全国各地を歩き回り、遂にここに究極の蕎麦が完成!」

な〜んて蕎麦があったら、面白いけど、食べてみたいとも思わない。
きっと、自己満足だけのものであろうし、
そもそも食べ物に究極などあるわけがないと思っているからだ。

matinosobaya

蕎麦はある程度の水準以上のものは「好み」でしかない。
それが全てである。



posted by 山口屋散人 at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 麺類学 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック